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中村鴈治郎 (初代) : ミニ英和和英辞書
中村鴈治郎 (初代)[しょだい なかむら がんじろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [かり, がん]
 (n) wild goose
: [はつ]
  1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new 
初代 : [しょだい]
 【名詞】 1. first generation 2. founder 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

中村鴈治郎 (初代) : ウィキペディア日本語版
中村鴈治郎 (初代)[しょだい なかむら がんじろう]

初代 中村 鴈治郎(しょだい なかむら がんじろう、安政7年3月6日1860年3月27日) - 1935年昭和10年)2月1日)は明治大正上方歌舞伎役者。屋号成駒屋定紋イ菱。俳名に扇若・亀鶴、雅号に玩辞楼、浄瑠璃名に吉田玉太郎。本名は林 玉太郎(はやし たまたろう)。
== 来歴・人物 ==
大坂新町妓楼扇屋に生まれる。父は芝居役者の四代目嵐珏蔵(後の三代目中村翫雀)、母は扇屋の一人娘妙。出生直後、芝居を諦め切れない父は母子を残したまま江戸に下る。文久3年(1863年)、四代目中村芝翫の弟分となって翫雀を名乗り、花形役者となる。一方その間に扇屋は没落。玉太郎も父同様役者の道を志すようになる。
1874年明治7年)、父と並び賞された名優初代初代實川延若の門弟となり、實川鴈二郎を名乗る。名は後に鴈次郎、鴈治郎と改めた。翌1875年(明治8年)、道頓堀筑後の芝居で初舞台。師延若や中村宗十郎に師事し、時には地方回りの辛酸を舐めるが、着実に力をつけて、1878年(明治11年)には翫雀の後嗣となって初代中村鴈治郎に改め、翌年には初めて座頭を務める。明治10年代(1877年 - 1886年)後半になると熱心に演劇改良運動に加わり、1886年(明治19年)には大阪演劇改良会を組織。名実ともに大阪随一の花形役者となる。雛人形のモデルとなったり、「御興とガンジロはん」の三大名物に数えられたり、「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と子供の戯れ唄にされるほど、その人気は大変なものだった。
鴈治郎の名跡は彼一代で大きくしたものだが、実は鴈治郎自身は「五代目」中村歌右衛門を襲名するつもりでいた。しかし東京の五代目中村芝翫が先に歌右衛門を継ぐ名乗りを上げ、「中村歌右衛門」の名跡を預かっていた十一代目片岡仁左衛門の判断で芝翫がこれを襲名することになった。このため鴈治郎と仁左衛門の関係は冷却、仁左衛門は鴈治郎の贔屓筋からの嫌がらせを受けるようになり、これが仁左衛門の東京移籍の遠因となった。
山田庄一は「鴈治郎の人気は、今では想像の出来ぬほど大したもので、一度、心斎橋を祖母や父と散歩中に、バッタリ出会って立ち話になりましたが、冬の事でマントを羽織り、帽子を被り、サングラスか何かをかけていたのにもかかわらず、少しの間に周囲に人垣が出来て、こちらの方が恥ずかしくなって、早々に退散した記憶があります」と述懐する〔『歌舞伎 研究と批評』21 歌舞伎学会。〕。
私生活は質素で、大阪ミナミの中心部の小さな長屋に住んでいた。鴈治郎が東京の五代目中村歌右衛門の家に招かれたとき、自家用車付きの広大な屋敷に「大きな屋敷に住んでよる」と驚いた挿話がある。成駒屋の東西のトップが対照的な暮らしをしていたのである。焼豆腐が好物で、俳優のくせに風呂が嫌いだったという。
九代目市川團十郎にその才能を認められたことから、1900年(明治33年)、初めて東京の舞台(歌舞伎座新富座)に上がる。五代目尾上菊五郎に可愛がられて人気を博し、その勢いをかって1903年(明治36年)には中座を太夫元を兼ねて務め、5ヶ月連続上演の大入りとなる。さらにこの年には白井松次郎を知り、その仕打ちで京都明治座を務め、以後白井との提携により数々の興行を成功させた。
1922年大正11年)の近松門左衛門二百年記念興行で東京新富座に出て、『河庄』の芸で東京人をうならせ松竹創成期の伸張と東京への進出に大きく貢献することになった。
1934年昭和9年)、大阪府芸術功労者として表彰される。同年12月3日南座顔見世で『鎌倉三代記・絹川村』の三浦之介を務めている最中に倒れて入院、翌1935年(昭和10年)2月1日に死去した。死去の号外が出るほどの大役者だった。作家の正岡容は、前年の室戸台風で倒壊した四天王寺五重塔と前年に死去した初代桂春團治とともに「春團治と鴈治郞と天王寺の搭と。大阪の三大名物、こゝに氓びたと私はおもつた」と記している。墓所は大阪市中央区の常国寺。
長男は二代目林又一郎、次男が二代目中村鴈治郎、その他に七女があり、六女・たみは長谷川一夫に、七女・芳子四代目中村富十郎に嫁している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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